たまにふと世界とはなんだろうと考える。
すべて解っているようで、実は何も知らない。
人一人の認識などせいぜい自分の周りくらいなもんだ。
そしてその認識は局部的である。
世界は、その中に存在するすべてで1つであり、また存在する1つ1つが世界のすべてだともいう。
さてバイク乗りである。
こいつらは何もなかったように世界に存在する。
普段は何気なく普通に生活している。
しかし彼らはバイク乗りである。
過去に乗っていたわけでもなく、未来に乗る可能性があるわけでもない。
彼らはある日からずっと乗り続ける。
バイクを降りることなど考えない。
もう何10年もバイクに乗ることを、タバコを吸うように、食事をするように、眠るように続けている。
車は今や環境の移動である、バイクはその環境の変化の中を移動する。
歩くことと同じように。
彼らにとってバイクはもう一人の自分である。
自分にしたいことをバイクに施し、また自分にないものをバイクに与える。
多くのバイクはなりたい自分を具現化する。
バイクに乗ることは特にバイク乗りの人生には大きな影響を与えない。
しかし人生の中にバイクに乗り続ける事は、時に困難な瞬間もままあるだろう。
しかしバイク乗りは、そんなことなど気にもせず乗り続ける。
彼らにとってバイクは、物でも財産でもなく、自分自身だから。
人生の困難に、自分自身を見放すことなどあっていいはずがない。
バイクを操ることは、自分の生き方のようである。
思い通りに走り、曲り、止まれるとき、それは至福のときだが、
そんなことは偶にくるお祭りみたいなもんである。
多くはどこかで悩み、どこかで考え、どこかで改善を必要とする。
バイクを変えても何の解決にもならないことをバイク乗りは知っている。
祭りが過ぎれば、また同じような悩みが、頭をよぎるからである。
満足できる人生のような、満足できるバイクがあれば、バイク乗りは幸せである。
またそんなバイク乗りは、また稀なのかもしれない。
誰かが言う、世界にはバイクに乗るものと、そうでないものしかいないと。
バイク乗りは、バイクに乗ってしか自分の人生を走れない。