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ここらでちょっと一休み 雑感「祈り」

現在X1号さんの更新も止まっているのですが、大体今までの進行を時系列に並べられたと思います。
正直他人の作業を、画像を通して記事にすることの難しさを痛感しています。
実際、実物を目の当たりにしながら作業をしている感覚がオイラにはありませんから、
無理もありませんが、マニュアルを見ながら見ていただくと、面白いかもしれません。

さて去年はあまりにいろんなことが起こり、何から考えてよいか分からないまま終わり、
今頃になって総括しているのですが、オイラにとっはいろんな意味で「祈り」がささげられた
1年ではなかったかと思います。

先の大震災では、被災者の皆さんは、知人家族の無事を祈り、オイラ達日本人の多くは、
被災地と被災者の皆さんの無事を祈り、世界は日本の無事と復興を祈ってくれました。
まさに何にも祈らなかったものなどいないかのような、状況だったでしょう。

今では収まりましたが、オイラ個人では、正月から夏ごろまで、意味も分からずただ神仏に参り、
祈る日々が続きました、
震災前から始まり、震災後も続き、夏ごろまでは、まさにそこに参り祈らなければならないような
状況で、神社仏閣、社や祠が現れ、お参りしましたが、最終的には、事故にあったとき、娘への
無事と平癒を祈らずにはいられない状況でした。

神や神仏への祈りだけが「祈り」ではなく、まさに人の思いの奥底から出る無為の思いが
「祈り」であると思うオイラは、昨年は多くの祈りを見た思いです。

よく「祈り」など無駄であると聞きます。
祈りなどあげても、何の意味があるのかと言われます。
それがタダの願いなのか、それとも祈りなのか、その区別は難しいでしょう。
正直オイラにもその区別はつけかねます。
しかしまた、あらゆる人々の中に1度も祈らなかった方などいないのも事実でしょう。
人は何のために祈るのか、そしてそれを聞き届けるのは果たして誰なのか、正直オイラには、
解かりません。

タダ一つオイラが感じるのは、祈りの前には人々の意識は一つであり、人々の意識は、深い部分で、
神や仏の存在も含め、実は大きな一つなのではないかと感じることがあります。

人々の死は個の終焉と多くは考えられますが、個としての終焉は全への回帰と考えるオイラは、
過去消え去った多くの聖者や神人もまた、個として存在が解消された後、全に回帰し、オイラ達と共にあり、
オイラ達そのものと同一になり、回帰すると考えます。

つまりオイラの考える「祈り」と言うものは、究極的には自らに向けられたものが最終的に自らに回帰するものと考えるのです。
オイラ達自らの奥深くから、発露として出た祈りは、結局自らの奥深くの意識に回帰し、実現していくもの
ではないのかと思うのです。
コレはまったくのオイラの個人的な考えであり、この考えに賛同を求めるものではありませんが、
オイラ自身は強くそう感じるのです。

自分の中にも印象的な祈りはいくつかあります。

オイラの親父がガンの末期だったとき、オイラは祈りました。
父の命は寿命とあきらめるが、その死が人しての尊厳を損なわぬように祈りました。
父は末期にもかかわらず、強い痛みもなく、初の家孫の誕生を待ち、その腕に抱き、直前まで母と
会話しながら、逝きました。

娘が事故で入院したときは、母は仏壇に向かい、父を叱責したそうです。
「あんなに可愛がった孫なのに、どうしてあんな目に遭わせるの。
何とか無事に済ませてください」と。
その頃オイラは、病院のベッドサイドで、父の存在を感じていました。
そしてこのときそれまで神仏に祈り続けた意味を知りました。

祈りとは何なんか、祈りを聞き届けてくれるものは何者なのか、難しい問題ですが、
オイラはそのように感じ、思った1年だったと思います。

今年はどうなるのでしょうか?。
まだ何も解かりませんが、ただオイラの中の「祈り」はまだ続いていると言うことでしょうか。
by jyai883 | 2012-01-08 21:47
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